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座敷わらし

オバケ度…
0%〜100%
特定状況で「出る」  × 相手無差別に「出る」   ?
会話は不可  ? 独自の論理   ?
異形の姿   ?

宮沢賢治を読みましょう。

座敷わらしという妖怪は、いるようないないような、とらえどころのない存在である。こういうあいまいさが非常に魅力的であると思うのは私だけではないらしく、座敷わらしを題材にした話がいろいろ作られている。

萩尾望都のマンガ「11人いる!」もよかったが、今回は、あえてこの作品のネタ元、宮沢賢治の「ざしき童子のはなし」を材料に話をすすめる。というのも、「ざしき童子のはなし」は、もう決定版! と言っていいほどこの妖怪の特徴をよくとらえているのである。(興味のある人は、岩波文庫の「童話集 風の又三郎」ほかあちこちで読めるので本家を見て欲しい。)

座敷わらしの特徴の第一は、「気配」である。たとえば、誰もいない座敷で、ざわざわと箒の音が聞こえる。のぞいてみても「お日さまの光ばかりそこらいちめ ん、明るく降って」いるだけ。開け放った日本家屋の真骨頂とでも言いたくなる、なんとも美しい場面である。一部に座敷わらしを「そうじをしてくれるオバ ケ」だとする説があるが、それはこの文章があまりに印象深いために派生したのではないかと思う。

次の特徴は、「子供の数が増える」ことである。座敷で遊んでいた十人の子供。いつのまにか、数えてみると十一人いる。「ひとりも知らない顔がなく、ひとり もおんなじ顔がなく」どう数えても十一人いるのである。ここで増えた一人が座敷わらしなのだ。それまでは気づかずにみんなで楽しく遊んでいたのに、おやつ を十人分持ってくるとひとつ足りないので変だな、ということになったりするのだろう。




第三の特徴は「福の神」であることだ。あるとき、紋付を着て袴をはいたきれいな子どもが、「飽きたから他へ行く」といって渡し舟にのる。その子が行く先だ と言った家はその後栄え、飽きたからと言った家はおちぶれたのだそうだ。この行動は貧乏神と同じ、家についてその運命を左右する神様のパターンである。

家につくものには、神様も妖怪もあり、オバケと神様が大変近い関係にあることがうかがわれる。民俗学のほうでは、オバケは神様のおちぶれたものであるということにもなっているから、それも不思議ではないのかもしれない。

少し気になるのは、座敷がなくなってきた最近の日本の家で、座敷わらしは一体どこに登場したらよいのだろうか、という点だ。大きなお世話かもしれないが、 ダイニングキッチンだのウォークインクローゼットだのに出入りするする座敷わらしなんて、まるで格好がつかないと思うのだ。それに、せっかくひとつの家に 居座っても、その家が栄える前に「そろそろ契約更新の時期だから」なんていって引越しされてしまうかもしれない。

さらに言えば、少子化、核家族化も、どうにも都合がわるそうだし、なにより親戚づきあいが薄くなってきたのがまずい。最近は本当に子どもが少ない。ここ十 数年、人が多く集まる冠婚葬祭の場面ですら、子どもの数を数えるような必要はなかったかもしれないと思えるほどだ。

またひとつ、日本からオバケが減ってゆく。なげかわしいことである。

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