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シンジル、シンジナイ…

私には、見えないのだ。

幼なじみのY子ちゃんは、霊感派である。

ごくたまのことだが、死んだはずの親戚の人が庭先に半透明の姿でうっすらと立っているのを目撃したり、大事件の予知夢を見たりすると言っている。

こういう話をするときの彼女の表情はいつもと変わらない。たとえば新しいお化粧品の情報を教えてくれるときとまるで同じだ。私は彼女が不思議を見ているとい う話を疑ったことは一度もない。でも、同じ物が私に見えるわけではないのだ。そのへんが切ない。決して行くことができない遠い外国の話を聞いているよう だ。

弟は、透視少年だった。

小学生の頃トランプの裏側が透けて見えたのだ。際限なく実験を繰り返そうとする姉の私を疎ましがりつつ、しかし従順に何度もトランプの山を赤と黒とに鮮やかに分けてみせてくれた。

今 それができれば、宝くじ売場へ行って当たりくじだけをよりだしてもらうのだが、こんな不思議ができたのは彼の体の調子が悪くて家にこもりがちだったほんの 短い時期だけである。すっかり図々しい大人になり果てた現在は、もうトランプを色分けして遊ぼうという発想自体、彼の頭の中にはないだろう。

私の記憶が鮮明であればあるほど、本当に赤と黒に分かれたトランプの山を確認したのかどうか、私は実際にあれを体験したのか、わからなくなってくる。だって、そういうことは、普通は起きないことになっているのだ。

お通夜やお葬式などの席で聞くところによれば、臨終の前後、子供が「誰かがいる!」といって火のついたように泣くという。同じ話を何度か聞いたことがある。 生死の境で、子供たちには何かが見えるらしい。でも、私はもう五歳の子供ではない。いくら彼らが泣いても、私には何もわからないのだ。

先日乗ったタクシーの運転手さんも、面白い話をしてくれた。深夜、空車でぼんやりと流していたら車体にドンという衝撃を感じた。あわてて車を寄せ外へ出る。 ところが、確かに人をはねたはずなのに、どこにも怪我をしてうずくまっている人がいない。人ではなく犬か何かかとも思い、周囲を探しても何もない。間違い なく大きい物をはねたはずなのに…。

もちろん最後のはよくある作り話のにおいがプンプンするが、作り話と決めつけては失礼だ。運転手さんたちはだいたい作り話が得意なのだが、本当のことだという可能性がないわけじゃない。

オバケを含む不思議の話は、伝聞だったり少し嘘くさかったりするのがまた魅力なので困ってしまう。決して確かにはつかまえられないことが、もしかしたら不思議の本質かもしれないとも思う。

というわけで、私自身は何も見たことがない。いつまでたっても憧れているだけである。

丑三つ時、薄暗い廊下、自分の足音だけが妙に大きく聞こえるしんとした空間の、明かりの届かない隅っこに何かの気配…。オバケの存在が確認されて、そんな「何か」が本当にいるということになってしまったら、私はどうするのだろう。

あるいは、たとえば三角頭で目が大きい宇宙人が朝のニュース番組に出演して「どうも、グレイです」などと自己紹介をしたら。ネス湖の水を抜いてネッシーがいないことが確認されたら。

そうなったら私は一体どう感じるのだろう。神秘性が減ったとがっかりするんだろうか。それとも、別の不思議をみつけてそれに憧れるんだろうか。

ことは「信じる」「信じない」で二分できるほど単純ではないらしいのだ。たぶん、わからないということ自体にある程度の価値があり、それがよけい事態をやや こしくしているのだと思う。見たいみたいといいながら、私は自分が不思議の存在を信じているのか、いまだによくわからないでいる。

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