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怪談牡丹燈籠を読む

珍しい、美人のおばけ

きれいな幽霊を作るには、箱入り娘が死ななければならない。三遊亭円朝作の「怪談 牡丹燈籠」を読むと、そういうことがわかる。

日本の代表的幽霊と言えば、四谷怪談のお岩、番町皿屋敷のお菊、そして牡丹燈籠のお露が御三家だろう。この中で、牡丹燈籠は、定着したイメージが全然恐くないどころか、美しいという点でユニークである。

御三家の残りふたつは、定石通りに髪振り乱したバケモノの形相である。しかし、牡丹燈籠では、女二人が美しく彩色された提灯を持って歩いている。あでやかに着物を着、結い上げた髪には櫛かんざしが飾られている。無論、顔はおだやかに微笑んでいる。バケモノ、というよりは、むしろ幻想的な美しさをたたえた美人画のようだ。

で、なぜ牡丹燈籠は美しいのかというと、このオバケは男に裏切られていないから、である。幽霊というのは、たいてい「うらめしや〜」と言って出てくるものだし、お岩とお菊の場合も、苦労と恨みが積み重なって、あの形相である。が、牡丹燈籠は例外なのだ。

お露は良いお家のお嬢様で、偶然出会ったハンサムに一目ぼれし、恋煩いで死んだ。世間知らずの女の子が片思いをし、何も行動できないままオバケになったものだから、凄みの出しようがないのである。

お露と一緒に歩いているのは、おつきの女中、お米である。この人は、恋煩いでやせ細って行くお嬢様の看病疲れで死んだ。こんな二人の組み合わせでは、どう化けでも、恐くなるわけがない。あまりに純情すぎて、まるで、コメディではないか。

その上、お露の想い人である新三郎は、実はやはり彼女に一目ぼれしていて、本人たちは知らないが、この二人は、片思いではなく両想いなのだ。おいおい。そんなんで死んじゃあ仕方ないだろうに。

現実の江戸から明治にかけての恋愛事情は、いくらなんでもこんなに純情一途というわけではないだろう。だって、奔放な恋愛の話も、いくらでもあるではないか。でも、話を箱入りのお嬢様という人種に限れば、恋煩いをするしかない不自由さは、本当だったかもしれない。




お露を化けさせたのは、彼女本人の想いの深さではなく、好きな人に連絡を取る手段さえなかった当時の社会の不自由さである、と私は思う。なぜって、一目ぼれをして、その後、相手と再度口をきく機会もないうち、つまり、バレンタインのチョコを渡す機会も来ないうちに死んでいるのである。あんまりではないか。しかし、恨む間もなく死んだということで、オバケになったときには、美しい。

これに比較して、最近のお嬢さんたちならば、とりあえず通信手段には恵まれているから、恋煩いのために命を削るなんてことは、あまりしないで済んでいるのではないか。携帯の番号を聞き出したり、グループで遊びに行ったりしているうちに振られるならば、諦めがつきやすく、わざわざ化ける気もしないだろう。

…とすると、このごろは、きれいな幽霊の数は減ってるのかな。幽霊の数自体、減ってるのかな。どうなんでしょうね。

参考までに書いておけば、作者、三遊亭円朝は、今からほぼ一世紀前、1900年に没した落語家である。落語家の作だから、当然、わかりやすく、面白いストーリーである。

読んでみれば、オバケの出る部分はほんのちょっとなので、「怪談」とタイトルについているのはサギだと思うし、なんだか人気が出たので連載回数を突然増やしたマンガみたいな、ご都合主義のストーリー展開でもある。でも、観客の気持ちを引き込むに不都合はない。誰でも胸に覚えがある片思いの苦しさを題材にして、こういう突拍子もないメロドラマも「あり」なのだ。

まあ、文句は、あえて言わないでおこう。それよりも、こんな連続ドラマ的波乱万丈の人情噺を、明治時代の口語で読む幸せの価値のほうを強調しておきたい。発表当時、この速記本は、庶民にも読みやすい口語体で評判になり、雑誌の売上にずいぶん貢献し、言文一致運動の牽引役となって、二葉亭四迷などに影響を与えたりもしたらしい。旧仮名遣いさえ気にならなければ、ルビがふんだんに振ってあるので、現代の私たちにとっても、読みやすい一冊である。


<蛇足>三遊亭円朝の作品は、青空文庫でも読むことができる。ただし「怪談 牡丹燈籠」は2006年5月現在、まだ「作業中」と出ていた。

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